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2018.05.26

シンガポール旅行記 その58

 さらに河口の方に向かって進むと、おそらくはアジア文明博物館(Asian Civilisations Museum)の裏側と思われる場所にたどり着く。周囲をイルミネーションに囲まれているので一見賑やかな感じだが、決して人通りが多いわけではない。川の向こうにそびえ立つ金融会社のビルをバックに、そこで腕を組んでぽつんと立っていたのがラッフルズ氏の像である。チュアンがここで何枚かの記念写真を撮ってくれた。

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 金融街を背景に立つラッフルズ像...と私たち
 
トマス・スタンフォード・ラッフルズ
(Sir Thomas Stamford Raffles:1781-1826)

 イギリスの植民地建設者。1811年、ジャワ副知事に任命され、統治に当る。このとき、ジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を発見する。1815年にジャワ島がオランダに返還され、イングランドに帰国。この間、1817年に『ジャワの歴史』を著し、同年ナイトの称号を授与された。1818年、スマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンに副知事として赴任し、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。ラッフルズは1822年から1823年までシンガポール東部に留まり、自由貿易港を宣して植民地の建設にたずさわった。また、鎖国中の日本と接触を図るが失敗に終わっている。1823年にはイギリスに帰国し、1826年ロンドンで死去した。ラッフルズは植物学・動物学・歴史学など、当時の諸科学に多大な興味を寄せており、ジャングルの調査をみずから組織している。世界最大級の花「ラフレシア」は、発見した調査隊の隊長であった彼の名にちなんでつけられたものである。(Wikipediaより)

 世界史は常にヨーロッパ人、侵略者の視点から描かれている。教科書をめくっても、先住民の心は簡単には読み取ることができない。ポルトガル、オランダ、イギリスが次々とこの地を占領してきた。ラッフルズもその中の一人のはずである。現代のシンガポールの人たちは彼をどのように見ているのだろうか。銅像にするくらいだから侵略者を見る目ではないはず。ここに住んでいたマレー人たちを搾取で苦しめた独裁者? それとも文明を与え拓いてくれた指導者? 日本も周辺の国々に進出し、植民地化した時代があるが、同様の2つの側面を同時に与えて来たのだろう。大戦から70年あまりが経ち、その間の経済援助、民間交流も含めた結果、今の日本に好意的な東南アジアの国と、敵対心むき出しの近くて遠い国がある。両者の反応を比較すると、歴史は常に分かれ道を繰りかえして進んでいくのだと実感する。今や、ラッフルズの時代から時間が経ち、多くの人種がここシンガポールに集まっている。そんな彼らの心に、この腕を組み遠くを見つめる銅像はどのように映っているのだろう。腕を組んで考えてみたが、勉強が足りない私は、考えたくらいで答えが出ようはずもない。

 「そろそろ帰りましょうか。Raffles Placeから地下鉄に乗るんですよね。私達も同じ方向なので、途中まで一緒に乗りましょう。」

 彼女たちの導くままに駅へと向かう。ぶらぶらと歩き回った上に、色々と感じ、考えながら歩いていたため、自分が今どのあたりにいるのかをほとんど見失っていた。しかしガイド付きの時間故、不安感は全くない。

 川を渡ろうとするとき、チュアンが立ち止まり、「私はシンガポールの橋の中で、これが一番好きなんです。」と話しかけてきた。カベナ橋(Cavenagh Bridge)と言う橋で、シンガポールで一番古い橋であり、小さいけどとっても風格があるからだそうだ。この時の彼の説明の中に馬やら馬車やらが登場してきたことは覚えているのだが、ネイティブ・スピーカーである彼の英語を100%聞き取れたわけではなかったので、帰国後、この橋のことを調べてみた。

(つづく)

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